| 3年振りの帰国 |
| 2007年11月6日、私の母親が亡くなり、急遽帰国する事に成りました。これは私が移住した時から、母が亡くなれば帰ることは決めていましたから、旅費的には問題は有りませんが、滞在先が問題でした、ホテル住まいなら帰国は出来ませんが、実家に滞在出来るなと兄に相談していました、それでOKの返事が来ましたので準備に取り掛かりました、でもいつでも帰れる体制は出来ていましたが、ココは異国の地、行政の問題で直ぐに帰れるとは思えません、ロイダの日本でのビザが、この時は既に切れています、私の出国手続き、航空券、荷物、滞在日数、我が家の管理、植木の管理、と考える事は山ほどありました。でも家の問題は無視して日本大使館でロイダのビサから始めました、でも日本大使館の担当官曰く、「もうビザは切れている、最初から申請してください」と冗談ではない、母が亡くなり今すぐ帰国したい、何とかして欲しいと嘆願しました、すると担当官は10分程度で私らを呼び、「判りました、奥さんのビサを1年延長しておきます」と簡単に出してくれました。喜んだのはロイダでした。これで憧れの日本にまた行けると・・・・・・・・次は私のフィリピン入管での出国手続きですが、移動が大変です、殆ど乗らないタクシーで入管に向かいますが、大渋滞で動きません、仕方が無いので、エルミタの旅行会社で航空券を探しますが、上手く葬式に間に合う便が有りません、これではもう式には出られ無いので、色々なルートを探しましたが、一番早いので次の日の1時で名古屋です。葬式が京都で13時なのに名古屋に13時では何とも成りません、そこで式は諦め、初七日に帰ることに決めました。航空券はフィリピンエアーラインより安い、タイエアーラインで帰国を決め、11月15日日本に向けて旅立つ事にしました。 当日大雨でマグサイサイは浸水状態でしたが、兎に角空港に向かいました。この後マグサイサイの我が家は浸水下しましたが、知るよしもありませんでした。 フィリピンに来て3年以上も日本に帰国していません、本当に懐かしく、タクシーも間違え右から乗ろうしたくらいです。 フィリピンの空港と関空では月とスポンの違い有るほど安心感が有りますね、その代わり、貨幣価値の違いで、日本では10000円が一瞬で無くなるのですね。 兎に角、予想以上にお金は要りましたね。それでかなり、親戚の者からも援助を受け、無事日本滞在が出来ました。 しかし何日かはお金が底を尽き苦しい戦いも有りました。 一つ忠告をこれはクレジトカードの話ですが、日本発行のカードなら問題は有りませんが、私はフィリピン発行のカードで、ゴールドカードと普通カードを持参しました。頼みのゴールドカードは使えませんでした。使えたのは普通カードで限度僅か8万円です、上新電機でカメラとPCだけでもう直ぐクロースですよ。ですから同士の方々、お気を付け下さいね。上手く使わないと、レストランでカードも使えませんから。 |
| @【機内にて】 3年振りの機上人となり、まさか3年そこらで日本に帰れるとは、母親が死ぬ一日前ですが、我が家の屋上で空を見ていますと、北東方向に飛行機が飛んいました、この飛行機を見ながら考えて居ましたね、いつ頃、日本に帰れれるかな〜と、その夜中日本から、母死ぬの知らせでした。 A【我が京都】 この川は鴨川です、実家の前ですね、綺麗な所です、フィリピンの貧民屈の横にも川が有りますが 期待を裏切らない、まさしく汚い川ですよ、そんな川を見ていますから、この鴨川は本当に綺麗に見えます、私は此処は自慢出来る川と思いますね。 B【親戚一同】 親戚一同と言いましても母方です、父親方は疎遠になり誰も忌明けに来ませんでした、実家の隣にも 親戚は居ますが、話に成りません、昔から言いますね、「遠くの親戚より近くの他人」と言いますが、隣に居ても他人です私2ヶ月居ましたが、1度も姿を見たことが有りませんでした。それに比べ母親方は義理堅く、人間身が有りますね、今回 ね、ロイダね親戚から年玉を頂戴しております、ロイダの歳は50才ですよ、これは外国人ですからね。何れにしろ有り難い事です。 C【京料理 二伝】 忌明けの食事は京料理で、京都でも5本の指の中に入ると言われて居るそうです、私ね、フィリピン料理の、あの油ぎつた餌を食べていたせいか、味が全部薄いのですね、「え!?」と言う感じでした、私はフィリピン人には申し訳無いですが、もう味覚感覚が正常で有りませんでした。 D【漢方薬屋】 随分見にくい写真ですが、川端御池に古くから有る漢方薬屋です。此処のショーウインドに剥製の猿がおいて有りますが、もう100年は此処に置いて有るのでは、昔から店舗もそのままで店内も変わらずです。私はこの猿を見るのは30年振りです。大変懐かしく、思い暫く眺めて居りました。 |
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